浜松餃子の歴史と特徴

文章:浜松餃子学会会長 齋藤公誉

-浜松餃子とは-

浜松餃子を一言で表す定義は、『浜松市内で製造されている事』です。現在では、この定義をよりピュアにする為に、『3年以上浜松に在住して』という条件を付加しました。が、つまる所、浜松で作られている事が重要で、それが特徴と結び付くのです。

はじまり -ひとつの起源-

日本に於ける焼き餃子文化は、ほぼどの地域も起源を同じくします。それは、「戦後、中国方面からの復員兵達が商売として始めた」ことです。中国での食体験を基に、戦後の混乱期を生き抜く為に食べ物を売る事にした訳です。きっと、様々な料理が作られた事でしょう。米を使ったものや小麦などの粉ものを使ったもの。恐らく、手軽に作れて食べられた麺類なども、この頃に多彩な味が生まれた事と思います。現代の様々な味の日本ラーメンに通じるものも、この辺りからが本格的に文化として始まったのかもしれません。そしてもうひとつ、それら新しい食べ物の中で日本人に愛されたものが、焼き餃子だったのです。しかし、浜松市に於ける焼き餃子食はもっと時代が遡ります。その詳細は最後の章で明らかに致します。

餃子は、中国では元来水餃子として食べられております。旧正月を迎える前日、所謂大晦日には、日本の年越しそばの様に水餃子を食べます。そしてその残りを、明けた正月に焼いて食べるのです。また、大事な客を持て成す時も同じで、これらは今も変わらぬ風習です。では、何故日本では敢えて焼き餃子になったのでしょう?それは、戦後という物資の不足した時代に、水餃子のスープにする材料がかなり手に入りづらかったのではないかという推察が一部であります。もっと複雑な理由も有ったかもしれません。持って帰る事を考えたのかもしれません。今となっては、その立証はかなり難しくなっておりますが、これらの推察は当らずとも遠からじと言えるかもしれません。いずれにせよ焼き餃子に生まれ変わった中国の「ちゃおず」は、日本人に大変好まれました。

その為、各地域で手に入り易い食材が餃子の具材になりました。例えば、ある地域の焼き餃子では、産地である所の「白菜」「ニラ」が選ばれました。元々中国では白菜を主に使っていたこともあるでしょう。

それに対し浜松では、

という素材特徴を持つ事が出来ました。ですから、浜松餃子の定義である「市内で作られた」事が重要なのです。キャベツを中心にしてあっさり味でありながら、豚肉のコクを併せ持つ餃子。それが浜松餃子です。

 そしてその味が評判を呼び、当時から餃子店には行列が出来たそうです。美味しくて安くて栄養豊富な料理。「やらまいか」浜松人には、さぞかし好まれた事でしょう。

餃子は、大きさや皮にも地域差があります。北・東方面へ行くに従い、大きく厚くなり、逆に西へ行くに従い、小さく薄くなる傾向が見られます。その中間点の浜松では、丁度その中間の大きさ・厚さが今でも多い様ですね。

円型焼き

当時、それらの食べ物は、多くは屋台で販売されました。お店を構える資金も有りません。勿論浜松に於いてもご多分に漏れず、焼き餃子は屋台で売られておりました。浜松駅周辺には、一大屋台村のようなものが出来たと聞きます。しかし、屋台で餃子を焼こうにも、当時はフライパンしか有りません。焼き餃子は水で蒸すという行程が有り、鉄板では焼けないからです。ところが、味が評判になった餃子の屋台では、押し寄せるお客さんに対応する為には、一度に多くの餃子を焼く必要が有りました。そこで考え出されたのが、円形に並べて焼くことだったのです。浜松餃子の焼き方の特徴である円形焼きは、その美味しさが全ての始まりだったのです。そして、円形に焼いた結果、これを数人前に分けるのではなく、それそのものが商品となってしまいました。何故なら、あっさり味の浜松餃子は、いくらでも食べる事が出来たからです。

もやしの登場

さてここで、何人かの挑戦者が現れます。円形に焼いたが故に真ん中に出来る穴、これが気になって仕方なかった方。そして、「お刺身には妻が付いているのだから、餃子にも何か有って良いのではないか?」という方など。そこで、サービス心旺盛な浜松人の事、何かを付け合わせに、と考えた結果、これもまた容易に手に入れる事の出来た「もやし」に辿り着きました。これは画期的でした。浜松餃子にぴったりだったのです。あっさり味とは言うものの、やっぱり脂(ラードをたっぷり使った様です。これも養豚業盛んであったが故でしょう)で焼いた ものですから、食べている内に脂っぽくなります。それを、もやしが綺麗にリセットしてくれたのです。そして更に餃子が食べられた訳です。浜松人が今でも、これでもかというくらい餃子を食べるのは、やはりこういう味のコラボレーションのお陰なのでしょう。

お持ち帰り文化

元々浜松駅周辺に在った屋台餃子ですが、噂が噂を呼び、人が人を呼び、どんどん人気が出て来ました。こうなると黙っていられない「やらまいか」浜松人。餃子店は瞬く間に郊外へとその数を増やしました。そしてこの様に広がりを見せた浜松餃子のお店では、様々な味が生まれたのです。あくまでキャベツが主体でありつつも肉を多くした店、ニラを使い始めたお店など。そうして、多様な味を持った『天然の餃子ミュージアム』たる浜松が誕生した訳ですが、ここで重要な事は、その時に生まれた「お持ち帰り文化」です。

元来浜松人は、外食を好みませんでした。従って、昭和40年代くらいまでは、飲食業は今程盛んでもなく、必ず出前が有ったくらいです。つまり、家で食べたかったのです。その為、屋台餃子の頃から既にそうなのですが、こと餃子に至っては、出前ではなく自らお店に赴いて、お持ち帰りをしていたのです。これは現代に至るまで脈々と受け継がれている文化で、何処の町内でも、歩いて買いに行ける様なお持ち帰りの出来る餃子店が大概2~3店は在るのです。

こだわり

面白いのは、各餃子店は独自のこだわりを持っていて、自分のお店の餃子に合ったタレを持っています。甘めだったり酸っぱめだったり。ラー油(一味)もオリジナルが多いです。したがって、お店で食べる以外お持ち帰りをする時にも、このこだわりのタレや一味を付けて出します。一味は、油気が無い様にしてアルミホイルに包みました。今では小袋に密封されているタレやラー油を多く使いますので、あまり見なくなって来ました。しかし、それ程浜松餃子はこだわって作られて来たのです。

更に浜松でのこうした焼き餃子文化は、家庭の味にまで入り込んで行きました。夫々の家庭で、夫々のこだわりの餃子が出来て来たのです。これは、もとより工業都市の色合いの濃かった浜松では、かなり自然なことだったでしょう。ニンニクを多く利かせて、疲れて家へ帰って来るお父さんの帰りを待つ家族。不細工でも、一所懸命餡を包む子供達。そんな、一家団欒の中心には、いつも浜松餃子が在ったのです。

終わりに -いく筋もの流れ-

さて今まで書いて来た事は、現在に続く浜松の餃子の主となる流れです。浜松では実は、全国に先駆けて大正時代より焼き餃子が食べられていた事が解っております。お店の名前も店主の名前も明らかになりました。それなりに人気もあり、大勢のお客さんが連日来ていたそうです。

大正~戦前、浜松市には多くの中国人が居りました。その方達の中で中国料理店を営んでいた方が、当時から焼き餃子を出していたのです。餡は、中心がお肉でこそありましたが、現在と同じく、キャベツを多く使っていた様です。さすがに大正時代の味はついえてしまいましたが、戦前の味は、当時そこに勤めていた方などが継承し、その流れは今に残されております。

こうした、戦前の流れ、戦後の流れ、そして、それらを受けた既述のオリジナルの流れ、これらいく筋もの流れが一体となり、「餃子の街・浜松」を形成するに至ったのです。故にこういう長い餃子の歴史があるからこそ浜松市内でこだわりを持って作られていることが大切で、それが定義となっているのです。

浜松の餃子の歴史、なぜ愛され続け今に至るのか、その一端をご理解頂ければ幸いです。

                                      以上